2016/07/12

小谷城跡の覚え書きと器展

 
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小谷城の番所跡。ここから先が本格的な城郭部。
二本の主要道の終点にあり、セキュリティチェックの場。谷(左)側に曲輪多数。

曲輪群や兵舎や高櫓、この上方が要塞の主要部で
高く太い土塁を伴った曲輪に畝堀も集中している。

信長方に尾根沿いのこちらから攻める案も当然あったように思う。
谷奥から急斜面を登る京極丸の虎口をあえて攻めた秀吉の目的は、
山王丸・小丸と本丸ラインの切断にあったか。
 
 
 
 
元亀三年(1572)七月、信長が陣を敷いた虎御前山が眼前に見える(左の小山)。

その右手奥、琵琶湖沿いに見えるのが山本山城跡。湖上には竹生島。

山本山城主 阿辻淡路守貞征が織田方の調略を受け入れたのは、元亀四年(1573)八月八日。
 
 
 
 
 
 
浅井三代に仕えた重臣、赤尾美作守清綱の屋敷へ。

細い道の奥で、本丸や大広間と近いが繋がっておらず、お市の方の軟禁場所になった。
質となったお市の方の脱出を浅井陣で警戒していたか。
浅井長政は落城直前に最後の攻撃をかけたが追いやられ、
ここ赤尾屋敷で速やかに自刃した(享年29才)。赤尾ら諸将も自刃。

元亀騒乱の期間は元亀元年(1570)四月二十五日(金ヶ崎城 朝倉景恒 調略)〜
二十八日(金ヶ崎の退き口)の浅井長政の離反から
 元亀四年(1573)九月一日の小谷城落城(長政自刃)まで。
 
 天正二年(1574)に長浜城築城はじまる=小谷城廃城→破城。茶々は永禄12年(1569)、初は元亀元年(1570)、江は元亀四年(1573)生まれ。
 
 
 
 
 
大広間跡。
 
お茶屋、御馬屋敷、桜馬場など土塁を巡らせた大曲輪の上方にあり、
本丸の真下。ここから生活道具の出土品多数。
 
 
 
 
 
大広間の井戸あと。秀吉による破城の際に埋められたか。

井戸跡多数で大広間だけでも2つ。山頂近くにも井戸がたくさん掘られていた。
 
 
 
 
 
本丸とされる鐘丸(当時のスピーカーである鐘があったと言われる)の石垣。

石の積み方からそう高く無かったと想像。 
 
 

 
 
 右手が本丸。奥が尾根を人為的に切る大堀切。

なぜ本丸横の中核部に大堀切があるのかは議論があるが、
小丸を落とし京極丸方面(写真奥)から進んでくる織田方と浅井勢最後の攻防はこのあたりだったと思われ、結果的にこの大堀切の位置は大正解だった。

本丸側が塁になっているように見え、崩れた石垣が散乱する。



谷側を覗くと、曲輪跡がたくさん見える。

信長公記によると小谷城の曲輪数は千あったとされる。




大堀切の中。本丸側が一段高い。





京極丸、小丸へ嶺ぞいに曲輪がつづく。

元亀四年八月二十九日、
小丸で長政の父 久政の首を確かめた秀吉勢が本丸を死守する浅井方と攻防、
長政自刃は九月一日。

京極丸から大堀切までは下りで、上方・織田方が圧倒的に有利な印象。
あえて虎口を突破してまで京極丸を落とした秀吉の狙いの確かさが伺える。




京極丸から見る枡形虎口があった場所。樹木に覆われて見えない。

広い曲輪になっており、双方の死傷者が一番多かった場所とされる。




小丸を通り社があった山王丸へ。

破城の痕跡に足をかけて登る。



刷毛目の変形ゆのみ
https://www.iichi.com/listing/item/913634




ここから下り。武者が駆けたとはちょっと信じられないような道。
六つのお寺の出張所があった六坊(行政機関)と
同盟の浅倉勢が詰めていた大嶽城(元亀四年八月落城)跡へ続く道。

東側、裏手を守る月所丸まで行って折り返す。ここまで約二時間。
大嶽城~山崎丸まで行くと下山まで六時間かかるそう。





帰り道。下って行くと、

クランクなど守りやすく攻めやすい構造が分かりやすい。




馬洗い池。馬を冷やす目的もあったか。

古代ローマでは競技場横で大規模なものも見つかる設備。




小谷城を含め、当時はどれもほぼ裸山。
飛び道具の障害や下からくる敵の隠れ場所になる木々は伐採される。

自然の山を利用し、段々畑のようにして平地を作り土塁や塀を巡らせ要塞とする。

小谷山の地形は守りやすいが城下町が発展しにくい。流通の要所を押さえていった信長に比べて、狭い谷合の小谷を本拠地としたのは浅井氏の失敗でもある。落城後、小谷城を与えられた秀吉は今浜(長浜)の湖畔に城と町を移し、小谷城は壊した。

山城の防御機能と平地の経済性を、高石垣の技術革新で組合わせたのは信長。




河毛駅の案内所で声をかけてくれたNさんが連れて行ってくれた実宰院。

長政の姉 昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)に、密かに小谷城を脱出した三姉妹が匿われて暮らしていたと地元で伝えられる。信長の追手に押し入られた時には身丈五尺8寸(176cm)目方28貫(105kg)の尼の法衣の中に三人が隠れたという。

裏づけるように淀君を側室とした秀吉の朱印状が残る。
また浅井が秀頼まで繋がる大柄な家系だったことも伺える。

 


浅井氏とゆかりのあった竹生島 宝厳寺。

元亀三年(1573)七月二十四日、小谷城攻めのさなかこの聖なる島も信長の威力攻撃を受け、明智光秀率いる船団から大砲などで攻撃された。比叡山の焼き討ちはこの前年、元亀二年九月。

また天正九年(1581)、竹生島に詣でた信長はその日のうちに安土城に帰り、長浜城でお泊まりなると思い込んで寺参りなどに出かけて自由に過ごしていた安土城の女房衆とそれを庇った長老を処刑した。





小谷城に入った秀吉は三千石あった竹生島の所領の九割を接収。また長浜城を建てるため長政から竹生島が預かり隠していた木材を出すよう命じた書状が残る。築城を急いだため小谷城の建物も相当長浜城に移築されたとされる。
一方で秀吉は永禄元年(1558)の竹生島大火災後の復興を援助した。

その後淀君の庇護を受け、またその後崇源院(お江)の寄進を受けたため、葵の御紋のついた品々が竹生島に伝わっている。

三姉妹の祖父 浅井久政は家内のゴタゴタで一時竹生島に幽閉されており、曾祖母と久政が蓮華会の頭役として寄進した弁財天像が現存。



国宝の舟廊下は秀吉の朝鮮出兵の際の御座船 日本丸の船櫓を利用して作られたと伝えられる。

唐門は平成十八年、オーストリア エッケンベルグ城の大阪城図屏風の発見で
黒い方の大阪城から移築されたものと判明。
ボランティアガイドさんによると伏見城のものとされる透かし彫りものもあるとのこと。


ベージュの流水紋茶碗
https://www.iichi.com/listing/item/913515






二泊目 長浜ロイヤルホテルから見える長浜城あと。

右側の湾奥が太閤井戸。右奥に見えるこんもりした小山が山本山城あと。



豊公園に長浜城の石垣が使われている。




湖畔に突きだし、船での出入りもできた長浜城の井戸あと。





天正十三年(1585)一月十八日の天正地震により当時の城主
山内一豊の娘を含む多くの死者を出し全壊。元和元年(1615)に廃城。

天秤櫓は彦根城に、大手門は長浜市内の大通寺に、搦手門は同市内の知善院に移築される。


藁灰釉の流れ茶碗
https://www.iichi.com/listing/item/913477

 



彦根城の天秤櫓。

関ヶ原合戦後、慶長六年(1601)三成の居城 佐和山城を与えられた井伊直政はその翌年 鉄砲傷の悪化で死去。家老が徳川家康に移築計画を諮った。

彦根城は長浜城だけでなく、佐和山城の石垣や建物も相当使われているとされる。




天守閣も京極氏の大津城を移築。

彦根城の建築は江戸初期でも天守は紛れもない
六角氏と激しくやりあった室町後期の戦国の城。




戸袋には隠し部屋が残る。





思ったより佐和山城跡が近い。

中央に佐和山城の大堀切がはっきりと見える


雲柄のゆのみ
https://www.iichi.com/listing/item/913562
 
 

 
 
彦根城の御殿。

城主の私室から見える瓢箪方の小さな池が可愛らしく、
 
いかにも心なごむ風情だった。